19年前の夏休みの記憶

忘れられない夏休みがある。

いまから約20年前の平成12年、暑さはどれほどだったか、覚えてはいない。けれど今ほどの茹だるような暑さではなかったように思う。今日はそんな昔話を綴りたい。

当時は小学6年生、小学校最後の夏休みもあいも変わらず少年野球に打ち込んでいた。しかし今日話すのはクラスでの出来事だ。

僕のクラスは、それはもう今でも年に一回は何かしらの集まりがあるほどの仲良しクラスである。正確にはあの一年を通して仲良しになった、ということになるわけだけど、8月という一年の中盤においてなお、それは垣間見えていた。

すべては当時の担任の先生のお陰であることは言うまでもない。


僕が小学校1年生から5年生になるまで、クラス替えは2年に一回ずつと決められていた。つまり、1・2年のクラス、3・4年のクラス、5・6年のクラス、といった具合の3度のクラス替えが約束されていた。

それは突然変わった。

5年から6年に進級した際、それまで2年毎であったクラス替えが突如1年毎に変わったのである。いま振り返ってもどういった経緯での規則変更だったのかはわからないし、知る由もない。ただただ当時の僕達は「クラス替えという一大イベントが最後に追加された!」と歓喜したのだった。

これは僕の記憶の中で、少しだけ曖昧になりつつあるものなのだけど、確か担任の先生の発表は少し凝っていて、体育館などで集まって―――ではなかった。

先にクラス自体(つまり自分が何組なのか)が昇降口先で発表され、そのまま教室へ行く。そして校内放送で各クラスの担任が発表され、同時に先生が教室に入ってくる、といったような演出だ。夢か現実かはわからない。でもそんな記憶が薄っすらある。

例えば、隣のクラスの担任発表での「おおー!」「やったー!」といった歓声も、隣の教室から聴こえてくる、といったような。

そんな中、僕らのクラスの担任になった先生はこれまで他学年を担当されていた、絶対に巡り合うはずのなかった先生だった。例年は、同じ学年担当の先生が何名かいて、担任替えといってもある程度推測できるラインナップから選ばれているような感じだったのに、だ。

確か、前年度は4年生の担任だったから順当にいけばその先生はそのまま5年生を担当するかと思いきや、全くの畑違い(いや、教員において畑違いの学年など存在しないわけだが)の学年の、それも担任となったのだった。

そうこうして始まった、僕らの6年次のクラス。

もうひとつその担任の先生の思い出話をするとすれば、先生自身がそのクラスのメンバーを知ったのも数日前であり、また、上述の通り、これまで全く関わりのなかった学年ということもあり、ほとんどが初対面の子どもたちであったにも関わらず、教室に入ってくるなり、名簿も何も見ず、出席番号順に全員のフルネームを呼んでいったのである。

もしかしたらこの時から僕らはこの先生に惹かれていったのかもしれない。数日前に知った30名以上の名前を順番通りに記憶し、点呼するような、人知れぬ努力と、その度胸に。


本題の夏休みに入る。

小学校の夏休みは7月後半から8月いっぱいというのが一般的であり(地域によって異なるとは思うが)、僕らの学校もその通りだった。

その夏、8月の31日のこと。夏休み前から決まっていたのか、突如決まったのかはわからないが、担任の先生主導で僕らのクラスは「肝試し大会」をすることになった。

確かに肝試しといえば夏の風物詩のひとつだし、8月後半とはいえ、まだその暑さから言えば十分すぎるほど雰囲気たっぷりな季節だ。その上、先生が決めた肝試しの会場は「学校」だった。

いま考えてみても、夏休み中の学校を舞台に肝試し大会をしよう!などというぶっ飛んだ考えを思いつくことはできても、それを実行に移そうという、リスキー(安全面やモラル的な面で)でしかない判断がなぜできたのかはわからない。

しかしその先生はそれをやり遂げた。


そもそもの話だが、こういったイベントは肝試しに限った話ではない。

ただ、僕の中でそれが一番印象的だったというだけで、学校のプールで水鉄砲大会をしたり、体育の時間に野球をしたりバック転をしたり、屋上でカップ麺を食べたり、ちょっとリスクのある、ワクワクもする、何とも言えない罪悪感を感じるような、そんな催し物を幾度となく開いてくれた。

誰も傷つかなかったし、誰もが楽しめるようにしてくれた。いまだったら色々と問題になるのかもしれない。いや、おそらく当時も問題視する声は少なからずあったのかもしれない。ただ、子どもである僕らはただただ楽しませてもらっていた。

さて、肝試しの話に戻る。

「8月31日の夕方、学校に集合」

多くのクラスメートが集まった。全員いたのかどうかはわからないけど、大半がいたようにも思う。

男女混合の4-5名のグループを組み、2Fの端にある図書室をスタートし、トイレや自分たちの教室を通って(ミッション的な)、階段を登って、ちょうど図書室の真上に位置する3Fの図工室がゴールだった。これも少し曖昧な記憶。

スタート前には、先生が近くの神社で言い伝えられている(たぶん作り話)という赤い光の話をする。端的に言うと、赤い光を見つけたら直視してはいけない、というお触れのようなものだ。

あとは、トイレの一番奥の個室から御札?的なものを取ること。教室にも何かミッションがあったかな。忘れてしまった。

教室のところで覚えているのは、当時、夏休み前に僕らのクラスでは大量の段ボールを使った迷路を教室に作っていたことだ。その状態で何かしらの授業をやったかどうかはまた記憶が定かでないけど、これもひとつのイベントとしてみんなで段ボールの迷路を作った気がする。

段ボールの迷路と言ってもほとんど一直線で、子どもが通り抜けられるくらいの筒状の通路である。ああ、そう、その迷路の一番奥にも何かミッション的な、御札的なものがあって、それを取ってくるような感じだったような。

ここまで書いただけでは、夜の学校に子どもたちを招いて肝試しと称して何かよからぬイベント?と疑われるかもしれない。

ここで確実に伝えておきたいのはこのイベントには多くの親御さん達が関わっていた、ということだ。先生は常に生徒の気持ちを一番としつつも、その安全性を確実に確保するため、親御さんの同意であったり、協力を仰いでいた。

だからこの肝試しの際、スタートの図書室から廊下、階段、ミッションで通るトイレ、教室、そしてゴールの図工室に至るまで、名目上「怖がらせる役」である親御さん達は待機し、その役割を全うしながら安全管理をしていた。

ちなみに、トイレには3つの個室があるが、ミッションをクリアするためには奥の個室まで行く必要があり、その道中の個室は通るたびに水が流れたりする演出があり、これは怖かった覚えがある。

また、教室内に設置された迷路には、作ったときはなかったはずの仕掛けとして、生のコンニャクが吊り下げられており、匍匐前進で進むとちょうど顔にピタッとあたり、ヒヤリとするような演出もあった。

各グループ、ワーキャー言いながらも(泣いている子もいただろうか)楽しみながらゴールに辿り着いたのだった。


この学校での肝試しは、後にも先にもこれが最初で最後であり、この翌年以降においても、その先生が担任となったクラスで催された、という話は聞いていない。

以前の同窓会において、この頃の背景にあった状況を知る友達もいるようであったが(色々と問題提起されたとか、このクラスだけ特別すぎるのではないかとか云々)、当時は何も知らなかったのではなく、先生がそれを知られないように努めていたのではないかと思う。

また、その問題提起の中において、僕らのクラスの親御さん達は常に先生の側に付いただとか、まあ、いろいろな噂は聞いた。

でも僕らにとって重要なのはそんないざこざの顛末でも、あれはよかった悪かった、とか現代のコンプライアンスに照らし合わせた正論などでもない。

あの当時、先生が事あるごとに振りかざした伝家の宝刀

『子どもたちが望んでいますから。』

学校での肝試しも、プールでの水鉄砲も、それこそ学校長クラスの許可が必要なものについては子どもたちの気持ちを一番にした教育方針を掲げたのだそうだ。これも噂に近いけど、これはなんか信憑性ありそうだと思ってる。


ちなみに、先生は一年間、学級通信を欠かさず発行し続けた。30号くらいまではあったと思う。

そこには普段の授業での何気ない場面の話から、遠足や運動会などのイベントの話まで載せられていた。ちゃんと全員の名前が平等に載るような構成になっていた気がする。(ちなみにこの学級通信は実家にすべて保管してある)

いま考えるとすごいなと思うのは、授業で100マス計算のようなスピード計算訓練なるものを実施し、その上位10名を記名で載せていた。

最初は計算が得意な子が常連だったが(僕もそろばんを習っていたので上位だった)、問題は四則演算ごとに4パターンしかないので計算が苦手でも答えを覚えてしまえばどんな子でも上位に食い込める仕組みだった。


そんな先生が、卒業を控えた僕らに対し、最後に望んだこと。

卒業式の点呼において、他のクラスの誰よりも大きな返事を全員がすること。内気な彼も彼女も、全員が「はい!」と大きな返事をすること。

そのため、普段大きな声を出すのが苦手な子たちには返事をする特訓までしていた。何かをやりきるということはこういうことなのだと教えられた気がした。

クラス対抗の大縄跳びでも、300回跳ぶぞ!と決めたら全員で成し遂げる。全員が大きな声で返事をする!と決めたら全員でバックアップする。

そして、先生自身は、始業式のあの日と同じ、全員の名前を名簿なしで出席番号順に読み上げたのだった。


終戦記念日や、夏の終わりが近づく頃、毎年思い出すこの肝試しの記憶。ところどころ、記憶の薄れた場面も多い。(肝試し後にみんなで花火したっけ?とか)

また今度、クラス会があったらこの日の皆の記憶を少しずつかき集めて、「あの日の出来事」の記憶をもう少しだけ鮮明に繋げてみたい。